2015年11月23日月曜日

写真をもっと上手に撮りたくなったら?意識を変えるだけで写真は変わる

Dager Thin Ice

やたらカメラレビューばかりやってるので写真についてのよもやま話をしたりお悩み相談を受けることも少なくないのですが私自身ちゃんと写真やってみようと思い立ってからまだ1年経ってません。なんらかの形での映像関係者としてはずいぶん長いんですけどね。

映像と写真は似て非なるもので、それが理由で壁にぶち当たることもありますが、そもそもカメラという機器を使うことには根本的に違いがないので、それで役立ってる知識や経験も少なくないです。加えてアパレルの広告とかウェブとかに携わってた時期もあるので、そこもまた役立っております。その辺も含めてお話ししたいと思います。

それでまず、表題の件「写真をもっと上手に撮りたくなったら?意識を変えるだけで写真は変わる」ですけども、なぜ技術の話ではなく意識を変えることなのかと言いますと、正直言ってどうやっても最近のデジカメなんて良く撮れるわけですから大事なのは意識転換のほうかなと。

ではどういう意識が大切なのかというと、「作る」という意識ですね。

「撮る」というのはシャッター切ればいいんですけど、「作る」が欠如してると記録はできても作品としてはろくなもんにならないんですよ。「作品」というからには「作る」という意思があって当たり前ですけども(笑)。個人的にはカメラを使ってできることは三段階に分けられると思っていて

(1) 写った

(2) 撮った

(3) 作った

の3つだと思います。
一番目の「写った」はあまり主体性のない感じなので分かるかと思います。暗すぎて見えないものもなんとか「写った」とか、速すぎるものも珍しいものも、はなから写す気がないものまでも、まぐれだったり偶然だったりで「写った」ということがカメラにはできます。フレームインしていて光があたっていれば(またはそれ自体が発光していれば)写ります。スチルではなくビデオカメラでいえば録画状態にしてそのまま放置していたような感じとでも言えましょうか。

二番目の「撮った」は積極的に撮りにいく意思あってこそですね。我思う故に我あり。防犯カメラやオービスで「撮った」とは言いません、それは「写った」です。じゃあ動体センサーを山林の獣道に仕掛けて写真家不在で撮影された動物写真はどうかというと、やはりそういう被写体に対しては「写った」という他ないのでしょうが、フレーミングやら露出やら照明やらの意図があればやはり「撮った」ということになるかと思います。ビデオカメラでいえば、子供の運動会であるとか友人の結婚式などを撮影するような行為かなあ。

三番目の「作った」はさらに一歩踏み込んで、「撮った」には違いないのですがフレーム内のあらゆる物事に対して可能な限りコントローラブルな撮り方。スタジオ写真はまるっきりそうですね、照明やレイアウトや背景やポージングなどなど完全にそうなる着地点を狙って「作った」もの。ビデオカメラでいえばドラマ作品をやるような感じとも言えます。

対して屋外スナップや風景写真のように自然環境が絡む場合では、山脈を移動させたりドピーカンを霧雨に変えたりはできません。野鳥や昆虫などを含む動物写真でもほぼ同様ですね。しかしそういう場合でも、カメラの露出設定やピント、構図、フィルターワークやフラッシュその他の照明などコントローラブルなところに対して「作る」意思があることと、アンコントローラブルな部分でも「機をうかがう」ことで企図の通りになるのなら、それは「作った」写真であるとは思います。ビデオカメラでいえば、ドキュメンタリー作品ってとこか。先述の、センサーで動物写真を撮るということについても、カメラマンの撮りたい動物が思惑通りのポージングや照明、構図などでバシっと撮れていれば「作った」と言えますよね。

こうした姿勢については、ある高名な映画監督の面白いエピソードがあります。
映画の撮影中「あの家が邪魔だからどけろ」とその監督がスタッフに言いました。それで立ち退いてもらって家を取り壊したら今度は「あの日の雲がない」と言ったそうです。映画は虚構の世界を「作る」わけですから、写真よりもその意向は強いかと思います。最近よく発生している、撮り鉄による自分勝手な設備撤去などのトラブルは、そういった面が悪く出てしまった例ですね。

それで、私がこれまでいろんな方々から聞いた写真お悩み話から感じるのは「作る」という意識が薄いところです。上にビデオカメラでやる行為も挙げておりますのでその意味はなんとなくご理解いただけたかと思います。これってなんとなくカメラ買って、なんとなく撮ってて、なんとなく上手く撮れたこともあって、なんとなく写真撮るのが好きになっていく、という流れのなかにいると気づきにくいんじゃないかなと思いました。

たとえばアパレル広告なんかだと、モデル写真だけでなく単にブツ撮りにしたって完全に「作る」わけですよ。最終的なゴールがあって、そこに向かって作っていくんです。まあそういう版権ものはここでは掲載できませんので、何年かまえに自分で発行した電子書籍の表紙を以下に貼っておきます。
0330 magazine vol.1 cover

上図はそんなに作り込んだ写真でもありませんが、明らかにたまたま撮れたシチュエーションでもございません。初代 iPad 発売という黒船の襲来当時、電子書籍時代の幕開けということで「かみよさらば」というお題にそったダジャレをやっています。「かみよさらば」と言いつつも、薄毛の男性が育毛クリニックの待合室にいるというアンチテーゼ。写真週刊誌くらいのリアリティは持たせつつ、ちゃんと前頭部が盛大に光るようにやってるわけです。後頭部にはなんだかピンコ立ちした妖怪アンテナかのようにドアの隅が見切れているところもお気に入り、カウンターにナース服の美女がいることでなんだか意味深になります。

場末の洋食屋だとか喫茶店に入ってメニューを見たら、心得のない店員が撮ったようなヒドい料理写真が載っていて、注文を躊躇してしまったり、どんな料理が出てくるのか戦々恐々なんて経験があると思います。「作る」というのは、ただ単純に「写った」ものとは違うんです。私がよく行く飲食店の方なんかは、NEX-7買ったからこんど料理の撮り方教えてくれなんて言ってきたんですけど、いやいやそこはプロに発注しましょうよと。SNSに投稿するんじゃないんだから。節約するとこじゃなくて絶対かけるべき経費だから。

またあるときは、わが親族が飲食店のオープンに携わったというので行ってみたら、「これ私が撮った写真」と自慢げにメニューを見せられたんですが、どれもこれもお洒落カフェにありそうな被写界深度極浅の写真。安いデジタル一眼が出始めた時期には、これまでコンデジで得られなかった大きなボケが流行りました。それで「プロっぽい」と勘違いしてやっちまった感のあるメニューでしたけども、エビフリャーの一点だけにピント合わせたら奥にある白いのがポテサラなのかタルタルソースかわかんねーだろうが。雰囲気食ってんじゃねーんだぞ、メシ食いに来たんだぞと。

たしかにトロトロのボケ味は魅力でもありますが、盛大にボケるだけボカせればいいってもんでもないです。レンズは明るいに越したことはないとはよく言いますけども、大きくボケるから良いということではなくて、ボケ量をコントロールできる幅が大きいという考え方が正しいと思います。ボケるから見えなくできる=隠せるということもあれば、ボケてるけど何があるかは分かる=なんらかの意図のもとに視線を逸らしてる等。例えば後ろから悪役が近づいてきてるのが"ボケながらも"判るのかそうでないかは、映画では大きく違いますよね。また手前の被写体から奥の被写体にフォーカスを移動する(あるいはその逆など)、いわゆるピン送りのような技法も映画では頻繁に使用されます。ボケ量やピント位置が作品演出において重要な意味を持ってくるというのは、映像演出を学んでる方は案外初歩の初歩で気づく点かもしれません。嗚呼そうだ、写真を「作る」というのは演出ということも含みますね。

過去のタイムラプス作品で「月蝕」というのがありまして、ぼんやり円い街灯の光をバックに羽化する蝉のシルエットを撮影したものです。
蝉の羽化シーンを逆光シルエットでタイムラプス動画にしてみた


蝉が羽化する動きでバックの街灯が遮られ、それが次第に変化していく様子を月食に見立ててのものです。こりゃあ明らかに「作った」ものですよね。CGでやってるという意味ではなくもちろんすべて実写です。こういうイメージのアイデアがあって、計算ずくでやっているということです。まず月食に見立てるのですから、そう見えるようなサイズ感を演出しなくてはなりません。蝉がとまる木と街灯のあかりとの距離、レンズの焦点距離で決まります。もちろん蝉がこちらの意図した通りに木に登って好位置で止まってくれるはずもありませんから、こればかりは機を待つのみです。さすがに偶然だけには頼れない確率なので、何匹も蝉の幼虫を捕獲してはこの木に登らせてみましたが、それでもぜんぜん好位置には来てくれないという忍耐の要る作業でした。

つまりは「撮った」だと既存のありものをどう上手くとらえるかに終始してしまいそうですが、「作った」の場合には「この事象をこういう風に撮るんだ」という想いですね。それが自然状態をねじ曲げるくらいの意思(意志)で臨んでようやく「作った」になるんではないかな。捏造するという意味ではなくね。

こちらは本物のお月さん
Fishing of the world's largest class

クレーンが月を釣った!というものですけど、毎日ベランダから工事用クレーンとお月さんを眺めて、ちょうど上手く重なったところで撮影しました。写真としてはもっとお月さんの比率が大きいほうが良いので、作品というよりかはあくまでも「作った」行為の一例として。

そして下図についてはもう、企て無しで撮れるものではありません。
Kingfisher bathing Continuous photo カワセミ飛翔連続写真

常々こういうカワセミの連続写真の合成をやりたいと思いながら、さりとて高速移動する極小物体にどうピントを合わせていくかが課題でした。夏の間この池に通い詰めているなかで、だいたいいつもこの位置関係でカメラのセンサー面に対して水平移動で水浴びをするカワセミの個体がいると判明。おかげで置きピンのまま連続撮影することができました。

カワセミの顔、特にクチバシや眼はあまり動体ブレしないように、しかし羽根には存分にはばたきの動きが出る絶妙のシャッタースピード、なおかつ目に光が入る太陽の位置という条件。何回かこうした水浴びを撮影できましたが、どのコマでも綺麗に翼を広げていて、なるべく等間隔で美しく列びそうな回のをチョイス、Photoshopで合成しました。

風景の名所でただ撮影しただけだと下図のように、名所だからこそ逆にありがちな凡庸さが強く露呈してしまうことも。
Toronto

そこでアクセントとして、飛んできた飛行機を捕まえてみました。
トロント

同じような小技としては枝ナメが有名かと思います。
枝ナメ

アクセントというよりはフレーム内フレーミングの類でもありましょうか、手前の木の枝をナメてやることで画面が格段に締まります。しかも桜や紅葉であれば季語にもなるという素晴らしい小技。もちろんススキのような草でもOKですね。十五夜のお月さんにススキの穂がかかる絵面などは和の定番ですよね。

さて、Photoshopで上図のナメてる木の枝を消し去ってみました。
枝ナシ

かなり腑抜けた画になってしまいましたね。いかにあの木の枝が画面を締めていたかがよく分かります。枝ナメで締めるのはごく初歩的な撮り方ですから皆さんには釈迦に説法だとは思いますけども。

私が大学で教わっていた教授のひとりに、時代劇や特撮のカメラマンをやってらっしゃる方がおりました。時代劇と特撮ってかけ離れてるようで案外そうでもないんですよね。ロケなんかだと、遠くに立ち並ぶ現代的な家々はぜんぶ消さなきゃいけない。CGやるような時代じゃないですから、それって特撮の合成とおなじです。そんでもって暴れ◯坊将◯をその辺に立たせたら、奥のほうにはお城の模型を遠景らしくほどよく配置したりなんかして、完全に作られた画ですな。極めつけは枝ナメです。画面を締めるだけでなく、 アラ隠しの意味もあります。

その枝どうしたのかって、そりゃ小道具さんだか大道具さんだかが持ってるそうで(笑)。「作る」ってそういうことでもあるんです。そこに良さげな枝がなきゃ自前で枝を持って来ればいいというのは柔軟な発想です。それはヤラセっぽいからイヤだとか仰る方も少なくないかもしれません。でも、程度の差はあるにしても、基本的に「作る」ってことは同じなんじゃないかなと思います。たとえば天気や日差しを待つのもそうではないでしょうか?写真は光を写すものですから、いい光があるときに撮らないと良くなるはずがありませんよね。

映画だと長時間露光は基本的にしませんし、荒くなる高感度フィルムの使用は写真撮影よりも忌避されがち。ですから、照明だけで作り込む手法はずいぶん奥深いものになってます。夜の窓に映る青い月光、夕暮れ時の影が長く伸びる赤みのある光、めらめら燃える炎が人物に照り返す光、暗闇でタバコに火を点けたりロウソクを灯したときの光などなど。昼間なのに夜にする、青いフィルターと絞りやNDフィルターの併用で「擬似夜景」なんて技法もあります。夜の闇のなかで汚く撮してしまうのではなく、潤沢に光源のあるなかで夜を表現するという、ソニーα7S II などの存在しない時代にはそのようにしておったんですな。

<蛇足>
ところでそのソニーα7S II は高感度性能がスゴいですな。

</蛇足>

構図や配置もまた然り。
映画監督でもあるフランス人歌手の故セルジュ・ゲンズブールは、ファインダーを覗いて、コーラの瓶を1cmだけ動かしたという逸話もあります。そこまで「作る」ということです。たしかに彼の映画はどれか1フレームだけ抜き取っても写真として美しい。

さて冒頭になんの説明もなく掲げたこの写真ですが...
Dager Thin Ice

すこし離れた立ち位置や方向から見れば、注意を促す立看板も、凍りついた湖上に立つ男たちも、そのどちらか一方しか見えないかもしれません。

しかしあえて両者をこの配置で撮影することで、ドリルやスコップを携えた二人と『危険・薄氷』という看板に意味が出てきます。おかげで、これから起きるかもしれないマヌケな大惨事に期待を寄せることになります。そう思わせるために意図的に「作った」写真ですね。現実には、少なくとも私が見ているあいだに何のアクシデントも発生しませんでしたけどね。

現代はスマホやPCのアプリで天体の動きから飛行機の離陸状況まで手軽に追えてしまう時代。Google Maps なんかは私もよく下調べやロケハン代わりに使うことがありますし、カシミール3Dなどのシミュレーションソフトによって、かなり高精度で任意の場所からの天体ショーも狙えるようになりました。任意の日時場所での日差しの加減もシミュレートできます。スタジオで撮影する写真に限らず、大自然を相手にもずいぶんと思惑を反映できる機会が増えているということになります。近年、スカイツリーにかかる月食や、どこそこから見たパール富士、月面に重なる旅客機といった写真を、いささか乱発気味なスピードで目にする機会が増えたのもそういう理由だとは思います。

以上、「作る」ということに関してあちこちに話や度合いや観点自体が飛びつつになってしまいましたが、デジタル一眼を買ってみてなんとなく撮ってるうちに面白くなってきたという流れだとやはり「作る」ところに気づかずに壁になってるんじゃないかなと、スナップショットや記念写真から始まるとそこが欠落したまま走り続けちゃうんじゃないかなと、いろんな方々の話を聞いてて思った次第です。

簡単に言い換えれば『これをこう撮りたい』というイメージの具現化になります。企画書や予算申請といえば身近に感じる方もいらっしゃるでしょうか。『ナゼこれをこうするの?』と聞かれて答えに窮するようではアウトなんだろうなと。最後に私の蔵書から、今回の話題について深く関連するお役立ち本三冊のAmazonリンクを貼って締めさせていただきます。

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